『ネットワード・インターナショナル・サービス(以下、Netword)』会長、『パシフィック異文化教育アカデミー(以下、PCA)』学院長「ハロルド・A・ドレイク」がメディア掲載、取材等で取り上げられた記事を紹介致します。
以下、掲載記事
終戦企画 連載3
『昨日の敵』が見た日本
星条旗新聞元記者ハル・ドレイクの証言
かつての大激戦地、硫黄島で1984年、戦いの跡をたどった。同じ年、旧日本兵に兄を殺された同胞と会った。そこで彼が見たのは、なお残る”増悪”ではなく、戦後培われた日米の友情だった。
構成/本誌 松浦一樹
かつての激戦地で共存
写真:日米の激戦地となった硫黄島。米軍上陸用船艇の残骸の向こうに擂鉢山が見える(1968年 松永悳三 撮影)
硫黄島の擂鉢《すりばち》山に星条旗を打ち立てる米海兵隊員の写真は、あまりにも有名だ。戦争を知る米国人が対日戦を思う時、必ず脳裏に浮かべる光景の一つと言っていい。米国人にとっては、対日戦の”激戦ぶり”と対戦での”勝利”を象徴する、歴史の一コマなのだ。日本本土空襲の足掛かりにしようと、米軍が硫黄島への猛攻を開始したのは1945年2月16日。その3日後には、海兵隊2個師団が上陸した。迎え撃つ日本軍の守備隊は2万人を超えたが、3月17日までに玉砕し、大多数が上陸した。迎え撃つ日本軍の守備隊は2万人を超えたが、3月17日までに玉砕し、大多数が戦死した。米軍にも約2万9000人の死傷者が出た。擂鉢山に星条旗がはためいたのは激戦のさなかの2月23日。ドレイク記者は激戦のさなかの2月23日。ドレイク記者は、旗を立てた米兵の一人に会ったことがある。擂鉢山を再訪したその男に。「殺されかけたかつての戦地に、なぜ戻ったのか」と尋ねると、こう答えたという。「殺される心配をしないで、あの山に向かって、もう一度、真っすぐ歩いてみたかった」そう聞いて、ドレイク記者は、戦後、日米間に訪れた平和をかみしめた。84年に硫黄島を訪れ、ある光景を目の当たりにすると、日米に戦争はもうあり得ない、と確信した。硫黄島守備隊の一員だったスギハラ・ゼンルイ陸軍中尉は、優れた日記を残していて、「戦争の歴史家」と呼ぶにふさわしい。45年2月26日に筆が止まっているが、戦死したのだろう。日記は、日本領土を制圧しようと迫ってきた外国人たちを、ののしっている。「砂浜を見下ろすと、数多くの軍艦が列をなし、上陸拠点を援護していた。忌むべき光景だ。見ていろ、今に抹殺してくれる」守備隊は確かに抹殺を試み、一部それに成功した。米兵の死者は6000人を上回った。この激戦の生存者たちと戦後生まれの世代は、遺恨を受け継いだのだろうか。
戦場のソフトボール試合
それから40年近くが過ぎて、かつての戦場からは、こんな声が聞こえてくる。「ゲッツ!球を擂鉢山まで飛ばすことはないぞ。ヒットでいいんだから」米空軍のジョン・ゲッツ下士官は三塁打を放って期待に応え、次打者のヒットで生還した。長打あり、ファインプレーあり、ヤジの応酬あり。米軍対海上自衛隊。日米いずれのベンチも、和やかなムードだ。硫黄島で、ソフトボールの試合のない週末は考えられない。恒例行事になって久しく、やめようという者は誰もいない。試合は14 – 5で米軍が制し、整列した選手たちは帽子を脱いで、お辞儀を交わした。日本式だが、米兵もこなれたもので、頭を下げても様になっている。その翌日、デービッド・ハーパート中尉は、ライバルの日本人とゴルフを楽しんだ。4ホールのコースがあって、そこをぐるぐると回りながら、ハーフ、または18ホールをこなす。この辺りでは今でも時々、薬きょうが見つかる。かつて、殺し合いの現場だった。米国はあの激戦から23年間、この島を”戦利品”として持ち続けた。返還後も、通信基地を残したが、日の丸の深紅が鮮やかな軍用機も舞い戻ってきて、「二つの国旗」が共存することになった。その地で、日本側の生存者たち(硫黄島協会)は今も遺骨・遺品の収集を続けている。まだ、約7000人の行方不明者がいるそうだ。硫黄島の数多い洞穴からは、帝国陸軍兵士の細長い軍靴や、防毒マスク、軍刀、「南部銃」のパーツなどが見つかっている。硫黄島には、忘れ去られてはならない大勢の戦死者がいる。日米はそんな島で毎週末、ソフトボールを楽しみ、お辞儀を交わしているのだ。
Japanese and Americans now battle on the softball diamond…(Pacific Stars and Stripes)
写真:かつての激戦地で、友情が培われていた。米軍と海上自衛隊のソフトボール大会(1984年3月7日付星条旗新聞から)
ドレイク記者は「スギハラ中尉」の日記に触れているが、原本の所在は不明だ。しかし、その英訳文は、激戦の「一日一日」を伝える貴重な史料として、米軍が保存している。厚生労働省によると、硫黄島の死没者名簿には「杉原全龍」「杉原金龍」の二つの名が見られるが、「スギハラ中尉」と同一人物かどうかは不明という。激しい戦闘で、日米ともに大勢の兵士が散っていった硫黄島。ドレイク記者は、擂鉢山に目をやりながら、日米間にあるのは、”遺恨”だけではないかと考えた。しかし、日米が友情で結ばれていることを週末のソフトボール大会が物語っていた。
兄を殺した旧軍人との再会
日米開戦(41年)の前に日米が激突したことがある。満州事変さなかの32年、中国・蘇州の上空でだった。ドレイク記者は、この空中戦で旧日本海軍パイロットに兄を殺されたエド・ショートさん(当時74歳)に84年に会っている。ショートさんは兄を殺した日本人と再会するために、米ワシントン州から東京を訪れていた。ショートさんは77年に日本人とハワイで顔を合わせて以来、「大の親友」になっていたのだ。そう聞いて驚いたドレイク記者は、「兄を殺した男をゆるし、その男と友情で結ばれることがあるのか」と問いかける。その答えが、この友情物語になった。ショートさんは米占領軍の一員として日本に滞在したこともある元空軍大佐から、「お兄さんの戦闘機を撃ち落とした男に会ってみないか」と誘われ、即座に会うことにした。そうして、77年に出会いが訪れた。「時の流れは人の心を和らげるものです。憎しみはなかった。その男は任務を遂行し、兄をそうした。それだけのことです」とショートさんは話す。そして、7年後、二人は再会した。ショートさんは都内のホテルで、その男が語る。”真相”に再び、耳を傾けた——。
1932年2月22日。旧日本海軍のパイロット、生田乃木次《いくたのぎじ》大尉は、10年後のミッドウェー海戦で撃沈されることになる空母「加賀」の艦上から発進した。複葉機を操縦し、編隊を指揮していた。生田大尉は江田島(広島県)の旧海軍兵学校出身で、将来を嘱望されていた。しかし、その日の任務は、「単なるパトロールで、攻撃を意図した飛行ではなかった」(生田さん)ふと下のほうを見ると、ボーイング社製P-12戦闘機1機が、低空から急接近し、機関銃をぶっ放してきた。生田大尉は素早く反応し、編隊を離れて急降下し、反撃を開始、銃弾を受けたP-12機は激しくスピンしながら、そのまま墜落した。わずか2分30秒間の出来事だった。生田隊は全機帰還したものの、乗組員の1人が死亡、もう1人が重傷を負った。
信じがたかった”武勇伝”
ショートさんは兄の死について、周囲から、こう聞いていた。8歳年上のロバートさんは陸軍航空隊の予備軍で、中国政府に米国製のP-12機を売るために、現地に駐在していた。生田隊と鉢合わせになった日は、商品であるP-12機を操縦して、蘇州に届ける途中だったらしい。蘇州で行われた葬儀で、新聞特派員たちはショートさんに、兄の”武勇伝”を語った。「彼は飛行機が蘇州で停車している列車を攻撃すると思った。軍用列車ではなかったから、それを阻止しようとしたんだ」「6機中4機を撃ち落として、5機目を強制着着陸に追い込んだが、最後の1機にやられた」そんな話は、兄が有能なパイロットだったとしても、にわかに信じがたかった。「遺族を慰めようと思って、あんな話をしたのでしょう」(ショートさん)単独で旧日本軍に向かって行ったロバートは、中国で英雄と見なされた。ショートさんは、そんな兄が遠い存在に思えていた。それだけに”伝説”ではなく、事実を語ってくれる生田さんとの出会いがうれしかった。「彼は勇敢に戦った」生田さんが語ったこの言葉で、ショートさんにとって兄のロバートは英雄になった。一方、生田さんにとっては、ロバートは死んではならない男だった。これがきっかけで生田さんは戦うことに嫌気が差し、退役を申し出た。日露戦争の英雄で、当時、旧日本軍の元老死的存在だった東郷平八郎提督が直々に引き留めたが、聞き入れなかった。「戦争が嫌になったのです」(生田さん)生田さんは軍服を脱いだ後、運輸省に入り、退官して三つの保育園を経営している
写真:1984年に東京で再会した生田乃木次さん(右)とエド・ショートさん
(Use with permission from the Stars and Stripes. ©Stars and Stripes.)
P-12機の撃墜は、国内では、旧日本軍が初めて敵機を撃墜したとして軍史に残る大事件だ。ロバートは「米軍人義勇飛行士」として、日米開戦前から日本でも知られていた。そのてんまつを紹介した記事の末尾で、ドレイク記者は、「ロバートの英霊は、彼を殺した男によって慰められている」とコメントしている。生田さんは毎年、撃墜の日(2月22日)に、供養を怠らなかったのだ。しかし、第二次世界大戦ぼっ発で、生田さんは再び軍に戻った。戦意を失っていた生田さんは、どのような心中で、米国と戦ったのか…。終戦時は少佐になっていた。終戦で日米の戦いが終わり、軍国主義はついえた。大きな垣根が取り払われたからこそ、ショートさんと生田さんは戦後、出会い、友情をはぐくむことができたのだ。ドレイク記者は、そう考える。「教育こそ大切」と千葉県船橋市で保育園経営に取り組んでいた生田さんは、2002年2月22日、97歳の生涯を閉じた。偶然にも、ロバートの死から70年後の同じ日だった。
ハル・ドレイク記者(島崎哲也太 撮影)
後日談:「読売ウイークリー連載記事の元になったハル・ドレイクさんの原稿が日本語翻訳されて出版されることになりました。」
『日本の戦後はアメリカにどう伝えられていたのか』(著)ハル A.ドレイク(翻訳)持田 鋼一郎(2008 PHP研究所)
ハル・ドレイク氏は、スターズ & ストライプス紙(『星条旗新聞』)最高の記者だ。
「戦後40年間にわたりその新聞を最も多く開かせた人物であり、いま彼の文章を改めて目にし、その理由がよくわかる。熱い情熱と鋭い洞察力で描かれた本書は、戦後日本の復興と日米関係の発展の様子を市井の人々の目線で見つめたい方々にとって必読の書である。」――ロバート・ホワイティング
「英国の詩人オーデンが言うように「歴史は敗者に嘆きの声をかけても、許してもくれないし、慰めてもくれない。」しかし敗者を理解することのできない勝者ほど社会を見誤るものはないだろう。格差の拡大する社会とは、敗者の理解することのできない勝者の理解する極めて危険な社会である。敗者にも礼をもって接する日本人の伝統は、いつの間にか消されたか、消えてしまったのだろうか。」(訳者あとがきより)