日別アーカイブ: 2006/08/06

「昨日の敵」が見た日本[vol.02]

『ネットワード・インターナショナル・サービス(以下、Netword)』会長、『パシフィック異文化教育アカデミー(以下、PCA)』学院長「ハロルド・A・ドレイク」がメディア掲載、取材等で取り上げられた記事を紹介致します。
以下、掲載記事


終戦企画 連載2
『昨日の敵』が見た日本
星条旗新聞元記者ハル・ドレイクの証言

40年近く、日本の戦後を追い続けていたドレイク記者には、いくつかの幸運な偶然もあった。「李香蘭」とは1991年に劇場で遭遇した。64年には、第二次世界大戦への”導線”ともいうべき「2・26事件」の目撃者と出会った。
構成/本誌 松浦一樹

つくられた銀幕の女王

写真:Yomiuri weekly No.66
写真:米国でもシャーリー・ヤマグチの名で知られ、人気を集めた山口淑子さん。この写真は米陸軍が撮影し、1952年3月2日付けの星条旗新聞に掲載されたもの(Courtesy of the U.S.Army Japan)

 ドレイク記者が「李香蘭」(山口淑子さん)の物語を知ったのは、戦後半世紀近くがたってからのことだ。劇団四季が1991年にその半生を題材にしたミュージカルを初演したのがきっかけだった。ミュージカルを見に行った東京・青山劇場で。「李香蘭」その人の姿を見かけ、幕あいで山口さん(当時・大鷹淑子参議院議員)に思い切って話しかけた。その時の短いやり取りが、星条旗新聞に掲載した「李香蘭物語」に取り込まれた。彼にとって「奇妙で、信じられない物語」を、ミュージカルの場面をなぞりながら、日中の不幸な歴史として語った。大鷹淑子さんはミュージカルが自分の半生を伝えていると思うだけで、心苦しかった。劇中で自分は、「嫌われ者の李香蘭を殺せ!」「日本に協力した卑しむべき裏切り者に死を!」と叫ぶ中国人の群衆の前で、さらしものにされていた。終戦直後の中国・上海で、”死”が目前にまで迫っていた。舞台の上では、ぼろぼろの日章旗が打ち捨てられ、まばゆいばかりの中国旗が掲揚されている。中国の群衆は、日本に怒りをむき出しにしていた。彼らは長らく続いた抑圧に対する報復の念にかられていた。李香蘭は、女優だけが身にまとう金ぴかの衣装をはぎ取られて、よれよれの囚人服を着せられ、軍用裁判にかけられた。フランス革命時の貴族のように責任を追及され、銃撃隊の持つ処刑場に連行されていった。彼女が告発されたのは、対日協力者と見られたためだ。日本のプロバガンダ映画への出演が、”祖国”への侵略行為を美化した罪としてとがめられた。

米兵も歌った「支那の夜」

 しかし、李香蘭は中国人ではなく日本人だった。中国東北部で生まれ、年少時から才能を認められ、演劇や映画の世界へ押し出されていった彼女は、中国人家庭に養子になり、「李香蘭」の名を与えられた。当時の日本は、支配下の国と人々を束ねて帝国を築き、「五族協和」をうたっていた。日本は娯楽の中心だった映画にそれを仕組み、李香蘭は先進的な日本の進駐で、幸せをかみしめる中国人——という役回りを繰り返し演じた。中国で中国人を装うよう強要されていたのだ。彼女の才能が日本の軍国主義者によって商品化され、彼女は”見せ物”にされていった。国籍を偽り、日本による侵略を美化することで、あがめられた「李香蘭」。豊かさと甘さに彩られた世界がでっち上げられて、日本の”善意”がもたらしたのだと宣伝された。そして、「李香蘭」は銀幕の女王になった。しかし、しょせんはでっち上げだ。虚構は崩壊し、日本の命運も尽きた。李香蘭に対し、軍政の手先となって身を売った中国人には死刑宣告あるのみ、と叫んだ検察官に、彼女は「私は日本人です」と釈明する。戸籍謄本で証明され、無罪が言い渡されるのだ。在日米軍は、李香蘭の物語は知らなくても、彼女が出演した「支那の夜」(40年、戦後「蘇州夜曲」に改題)という映画の同名主題歌は聞きなじんでいた。戦後、日本を占領した米軍兵士が替え歌にして、楽しんだ歌だったからだ。ドレイク記者が、劇場で山口さんにそれを話すと、彼女は、にこっと笑みを浮かべたという。さらに、なぜ、こんな数奇な道を選んだのかと尋ねると、「それしかなかったからです」と小さな声で答えた。終戦直後の上海の法廷で無罪となった李香蘭。しかしドレイク記者には、彼女が戦後半世紀近くたってもなお「自分」という名の法廷に立ち続けているように感じられた。

士官宿舎と革命家たち

写真:Yomiuri weekly No.66
写真:1978年に返還・代替施設への移転が決まった山王ホテル(鯵坂青青撮影)

 ドレイク記者が東京・永田町にある山王ホテルを舞台にした戦前の「秘話」を知り、衝撃を受けたのは、日本が高度成長期へと邁進していた64年のことだ。米占領軍が46年に接収し、当時は米軍士官の宿舎として使われていたことから、数あるホテルのなかでも、ことさらなじみ深いホテルだった。ドレイク記者は女優・歌手の朝丘雪路さんにインタビューしようと訪れ、創業者の中谷保《なかややすし》さん(当時79歳)出会い、話しに引き込まれる。中谷さんは、それに先立つこと約30年の「2・26事件」の証人だった。

 ドレイク記者は、その出会いを基に、こう報じた。観光スポットが集まる東京を通り抜ける外堀通り沿いのビルで山王ホテルは、一時最も有名で一番目立っていた。戦争の勝者としてホテルを占領した”アウトサイダー”は、今や日米安全保障条約によって滞在を許されているテナントに過ぎない。日本に返還される時まで、米軍士官とその家族がここで歓待されるのであろう。軍服姿の男たちは、いつも歓迎されていたわけではない。この廊下は、武力で日本を改革しようと志す過激な軍人のひそひそ話で満たされたこともあった。

 ホテルが建ったのは33年。このころ辺りは、キツネが出るような原野だった。米国で学んだ中谷さんが初代支配人となったが、流ちょうな英語はあまり役に立たなかったらしい。外国人客はまれで、「南満州鉄道」(満鉄)の社員や国会議員の定宿になっていた。ところが36年のある日、見慣れない客の一団が目についた。在京精鋭部隊の皇道派の兵士たちだった。「妙だなと思いました。軍がこうして押しかけてきたことは、ありませんでしたから」(中谷さん)

恐ろしかった「あの男」

写真:Yomiuri weekly No.66
写真:ドレイク記者が取材に訪れた64年当時の山王ホテル内(Used with permission from the Stars and Stripes.©Stars and Stripes.)

 そして2月26日、東京は雪が降り、そして冬景色が美しかった。しかし、夜明け前に銃声のような耳障りな音が聞こえ、中谷さんの執務室の扉は突然開いて、軍服姿がなだれ込んできた。兵士たちは礼儀正しかったが、銃剣を構え、断固としていた。「『新政府の閣僚となる将官たちのために、一番いい部屋を用意しろ』と言われました」クーデターが進行するなか、中谷さんは一人の青年将校の挙動に目が留まり、ぞっとさせられた。激高し、行動がやけにきびきびとした安藤輝三大尉だ。主導者の一人で、「我々は避けられない戦いの中にある」「正義は反乱軍の側にあってきっと勝利するであろう」と、部下たちに言い聞かせていた。中谷さんはそれを聞いて、古い考え方だと思ったが、大尉の権威は絶対的なものだった。彼はホテルの明け渡しを求め、腹をすかした兵隊に与える食料を要求した。中谷さんがおどおどしながら、「おにぎりしかありません」と言うと、大尉は「それで結構」と答えた。中谷さんは繰り返し言う。「本当に恐ろしかった」安藤大尉はためらわずに人を殺せる激情の持ち主で、日本を内戦へと導きかねない――そう思えたという。その晩、中谷さんは自宅に帰ることを許された。しかし、夜明け前には、再びホテルに戻るように命じられていた。逃げたい衝動が全身を駆けめぐったが、従業員に危害が及ぶことを恐れ、逃げはせずにホテルに戻った。クーデターは終結へと向かい、中谷さんは威厳を保ちながら死を覚悟した。しかし、ホテルを占拠していた青年将校たちは突然、去った。”要塞”の外に一人たたずんだ安藤大尉は、短銃を取り出して自決を試みた。軍の反乱「2・26事件」は、日本を揺るがしはしたが、政府を倒すに至らなかった。中谷さんの生々しい語りに、記者はその場でくぎづけとなった。歴史の生き証人に出会えた喜びを胸に、中谷さんと握手を交わし、取材を終えた。

 ドレイク記者が「2・26事件」に関心を抱いたのは、失敗に終わったものの、日本の軍国主義者たちがわずかな時間とはいえ、中毒性のある”独裁”の味を占めたと感じたからだ。中谷さんは、ドレイク記者が話しを聞いた年の12月に亡くなった。この取材以来、ドレイク記者は戦前に改革家たちに占領され、戦後は赤、白、青の三色旗を飾って独立記念日(7月4日)を祝う”征服者”たちによって接収された山王ホテルの歴史に、魅了され続けてきた。旧山王ホテルは83年に日本に返還され、士官宿舎としての機能はニューサンノー米軍センター(東京都港区)に引き継がれた。「サンノー」という名前だけが残った。80年代に入り最後の宿泊客たちが去ると、山王ホテルはその役割を終えたのだ。2004年になって、ドレイク記者は超高層ビルが立つホテル”跡地”を訪れている。高層ビル群や外国企業の看板がかつての趣をかき消し、70年近く昔、クーデターが起きた痕跡は全く残されていなかった。

写真:Yomiuri weekly No.66
写真:山王ホテル創業者の故・中谷保さん(安全自動車提供)

掲載記事:読売ウイークリー 第66巻 第34号 通巻3035号(読売新聞東京本社)【2006.08.06】

後日談:「読売ウイークリー連載記事の元になったハル・ドレイクさんの原稿が日本語翻訳されて出版されることになりました。」

『日本の戦後はアメリカにどう伝えられていたのか』(著)ハル A.ドレイク(翻訳)持田 鋼一郎(2008 PHP研究所)

写真:日本の戦後はアメリカにどう伝えられていたのか | ハル A.ドレイク
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ハル・ドレイク氏は、スターズ & ストライプス紙(『星条旗新聞』)最高の記者だ。
「戦後40年間にわたりその新聞を最も多く開かせた人物であり、いま彼の文章を改めて目にし、その理由がよくわかる。熱い情熱と鋭い洞察力で描かれた本書は、戦後日本の復興と日米関係の発展の様子を市井の人々の目線で見つめたい方々にとって必読の書である。」――ロバート・ホワイティング

「英国の詩人オーデンが言うように「歴史は敗者に嘆きの声をかけても、許してもくれないし、慰めてもくれない。」しかし敗者を理解することのできない勝者ほど社会を見誤るものはないだろう。格差の拡大する社会とは、敗者の理解することのできない勝者の理解する極めて危険な社会である。敗者にも礼をもって接する日本人の伝統は、いつの間にか消されたか、消えてしまったのだろうか。」(訳者あとがきより)