日別アーカイブ: 2006/10/27

映画『硫黄島の戦い』インタビュー

『ネットワード・インターナショナル・サービス(以下、Netword)』会長、『パシフィック異文化教育アカデミー(以下、PCA)』学院長「ハロルド・A・ドレイク」がメディア掲載、取材等で取り上げられた記事を紹介致します。
以下、掲載記事


 明日公開の映画「父親たちの星条旗」、12月公開の「硫黄島からの手紙」は、クリント・イーストウッド監督が第2次世界大戦末期の激戦地、硫黄島の戦いを日米双方の視点から2部構成で描く話題作だ。「硫黄島からの手紙」で日本の司令官、栗林中将を演じた渡辺謙さんと、元「星条旗新聞」記者で40年にわたり日米の姿を見つめてきたハル・ドレイクさんに話しを聞いた。

 硫黄島の戦いとは——。1945年2月16日から約1ヶ月間繰り広げられた、日本の最南端に位置する東西8キロの小さな島を巡る日米の攻防戦。硫黄島の武力排除が日本攻略への重要なステップと考え侵攻した米軍に、日本軍は島を要塞化し必死の抗戦。日本軍兵士22,000人の中で生き残ったのはわずか1,000人。第2次世界大戦中で、米兵の死傷者が日本軍を上回った唯一の戦場となった。


硫黄島の代償 ハル・ドレイクさん 元「Stars and Stripes(星条旗新聞)」記者

写真:Hal A. Drake

 サイパン島占領後、次のターゲットを硫黄島と考えた米軍でしたが、日本がどこまで本土を守るために硫黄島を重く考え戦うのか、甘く見ていたように思います。結果、日本軍の猛攻を受け、多くの犠牲者を出してしまった。ただそれに気がついたときには、米国にとって硫黄島は”腐りきった虫歯で、最後には抜かなければならない場所”だったのです」。戦争写真としてあまり有名な「擂鉢山上の国旗掲揚」の様子は、そんな戦況の中、戦いに疲れていた米国人を熱狂させた。ドレイクさんは当時、まだ15歳だったが「大変誇らしく思いました。あの写真は現在でも太平洋戦争の激戦と輝かしい戦勝を物語るシンボルです。」と語る。

【戦地でかみしめる平和】・・・旗をかかげた6人の兵士のうち、帰国した3人は英雄として祭り上げられ、政府による戦債募集キャンペーンに利用された。ドレイクさんはそのメンバーのうち、アイラ・ヘイズとレイニー・ギャグノンの2人に会ったことがある。「帰国直後の彼らは、絶対的なヒーロー、鉄人でした。プレスリーやビートルズなどとは比較になりません。”たとえ弾丸が当たっても彼らは死なない”と思える。そんな存在でした」ギャグノンはドレイクさんに、戦後妻と息子を連れて硫黄島を再訪したときのことを話した。「私が『殺されかかったかつての戦場に、なぜ戻ってきたのか』とたずねると、彼は『銃弾の降る中、這うようにして駆け上がった擂鉢山に、もう一度まっすぐ立って歩きたくなったのだ』と答えました。平和をかみしめるようなひと言でした」

【戦場で受けた傷】・・・先住民ヒマ族、アイラ・ヘイズの話しが特に悲しい、彼はドレイクさんが当時勤めていたミラー紙に、テレビ出演料としてもらった小切手を換金しにやってきたことがあった。「彼は、英雄として活躍していましたが、その後、シカゴで酒浸りの惨めな生活に身を落とし、服はボロボロ、足は裸足の惨めな姿で現れました。彼は他人からの施しを乞いながら酒を飲み続け、世間から見放され後ろめたいような様子で、現金をもらうと歩いて帰って行きました。その後、彼は南西部のアメリカ先住民保留地で酔いつぶれたまま凍死してしまったのです。これは、あまりにも短い間に多くのものを見過ぎてしまった先住民ヒマ族の少年が、酒におぼれるあまり戦債キャンペーンを台無しにしてしまったことで、英雄の称号をはぎ取られてしまったせいなのでしょうか?戦争で受けた傷は、体だけではなく、精神的な部分が非常に大きいのです。特に彼らは硫黄島という地獄の戦場から、一転してヒーローとして扱われてしまった。それはあまりにも大きなギャップだったと思います。ギャグノンに取材したときに、ヘイズのことも聞いてみました、彼はうなずいたまま、悲しい記憶を自分の中に収めるように無言のままでした。私は、ヘイズは硫黄島の最後の犠牲者だったと思うのです」ヘイズが亡くなったのは、彼らが国旗を山上に掲げてから、10年を迎えようとしていた1955年1月のことだった。

Profile:
Hal A. Drake《ハル A. ドレイク》
1930年米ロスアンゼルス生まれ、朝鮮戦争召集後、「ロサンゼルス・ミラー」誌を経て1956年米軍の准機関紙「星条旗新聞」記者として東京に赴任。1995年に引退するまでの40年間、日米の姿を見つめてきた。


島の叫びに揺さぶられる感情——「硫黄島からの手紙」主演 渡辺謙さん

写真:Ken Watanabe

 撮影に入る前から昂りをおぼえていました。代表作の1つである『許されざる者』が私にとってエポック的存在となったほど、多大な影響を与えてくれたクリント・イーストウッド。彼が作り上げる世界に参加できるのだから。かくして私は、会ったその日から『クリント教』に入り(笑)とことんついて行くぞと決意することになります。モニター前から遠く指示を飛ばすのではなく、必ずカメラと俳優の合図を出す。皆がいかに心地よく仕事が出来るかに心を配る彼が作り出す現場の空気は、戦争映画を作っているとは思えないほど穏やかでした。

 撮影の際は、彼はリハーサルを行いません。入念なディスカッションはするものの、俳優同士で軽くセリフをあわせたらすぐにカメラがまわる。独特の緊張感は、この作品のドキュメンタリー性をより一層実感させてくれたものです。

【思いを受け止める】・・・私が演じる栗林中将は、アメリカ軍に最も優秀な指揮官と呼ばれた人物。戦前には駐在武官をつとめていたこともあり、陸軍の中では珍しい親米派でした。そんな彼が、米軍を相手に硫黄島の前線で無謀な戦いに挑む…。まず栗林という人物を知るため、できる限りの資料に目を通し、長野県のご生家へも足を運びました。山あいに囲まれた長閑な地で生まれ育ちながら、なぜ絶海の孤島で死を遂げなければいけなかったのか。そこに至る彼の思いを、まず私自身が肌で受け止めたかったから。この映画に出会うまで、多くの人がそうであるように、硫黄島のことは名前程度しか知りませんでした。たくさんの犠牲者が出たにもかかわらず、歴から葬り去られそうなこの戦いを、60年も前の軍人の気持ちを、理解するのは難しい作業でした。文化も価値観も異なる日本人とアメリカ人の間に入り、毎日連絡ノートをつけながら橋渡し役をつとめ、根気よく内面を伝えあう。膨大なディスカッションを重ねた日々も、日米が共に作り上げたこの作品の軌跡だと思っています。

【私たちの時代を検証する時期】・・・撮影が終わりに近づいた頃、浜辺を歩くシーンを撮るため1日だけ硫黄島に行くことができました。かの地に降り立った時の衝撃、今なお多くの犠牲者が眠る島の叫びに揺さぶられた感情を、私は永遠に忘れることはないでしょう。戦争は愚かで無意味なもの。そこには勝者も敗者も存在しません。だけど誤った情報に惑わされ揺動された精神状態に、もう二度と陥らないと言い切れるのか、この映画を通して、私たちの時代を今一度、検証する時期がきているのではないかと強く感じました。前作『明日の記憶』とは一転、かけ離れた作品のようですが、神経を研ぎ澄ましながら自ら持ちうる想像力とエネルギーをすべて駆使するという点では非常に似ていた気がします。これほどまでに魂を注げた作品が続いたことはとても幸せでした。『硫黄島からの手紙』は、口の中にザラリと砂が残るような、いい意味で後味が悪いかもしれません。この作品が、私たちにとって決して忘れてはいけないことをもう一度振り返り、そして考えるための足がかりになればと思っています。

Profile:
渡辺謙《わたなべけん》
1959年新潟県生まれ 円劇団研究所を経て1984年『瀬戸内少年野球団』で映画デビュー、2003年には『ラストサムライ』で、アカデミー助演男優賞にノミネート。日本人初の本格派ハリウッド俳優のフィールドを広げている。

Story & Introduction:
『硫黄島からの手紙』手紙が蘇らせる激戦の真実

 硫黄島の戦いから61年後、地中から掘り起こされた数百通の手紙。その手紙によって、圧倒的な米軍の兵力の前にすぐに終わると思われた戦いが、36日間におよぶ歴史的な激戦となった革新的な作戦と総司令官・栗林忠道(渡辺謙)の姿が浮かび上がる。
 オリンピック金メダリストで栗林の良き理解者「バロン西」こと西中佐(伊東剛)、軍人らしく玉砕を貫こうとする伊東大尉(中村獅童)、エリートから一転、激戦地へ身を投じる清水(加藤亮)ら、死を覚悟しつつ、家族のために必死に戦った若き兵士たち。
 届けられることのなかった彼らの手紙は、それぞれの思いを鮮やかに照らし出す。

『父親たちの星条旗』戦争の光と陰

 硫黄島の擂鉢山に6名の米兵が星条旗を掲げる有名な戦争写真に写る兵士の1人、ジョン・ブラッドリーの息子ジェイムズ・ブラッドリー原作の『硫黄島の星条旗』を、2度のアカデミー賞監督賞に輝く名匠くクリント・イーストウッド監督、制作にスティーブン・スピルバーグ、アカデミー賞受賞のポール・ハギスが脚色担当という豪華顔合わせで映画化。ひとりひとりの人物を丁寧に描くことで、それぞれの感情面を見事に映像で表現。圧倒的な戦闘力で侵攻する米軍と日本軍の凄惨な戦闘シーンと、帰還後の華やかな歓迎セレモニーが戦争の光と影を見事に対比させ、生き残った3人の兵士の苦悩を浮き彫りにする。

英雄たちの苦悩

第二次世界大戦末期、日米が激しい戦闘を繰り広げた硫黄島で撮影された”国旗を掲げた6人の兵士たち”の写真。戦争に疲弊するアメリカ国民は、この1枚の写真に熱狂した。6人のうち3人は戦死し、3人が死闘から生還。英雄として賞賛をあびる、海兵隊のレネー・ギャグノン(ジェシー・ブラッドフォード)とアイラ・ヘイズ(アダム・ヘイズ)、海軍衛生下士官のジョン”ドク”ブラッドリー(ライアン・フィリップ)。彼らは、戦時公債用の資金集めのためアメリカ全土を巡るキャンペーン・ツアーに駆り出され、戦闘そのものと帰還後の宣伝活動の両方から深く傷つけられていく……。

日米双方の視点から、戦争の影響を描きたい クリント・イーストウッド(監督)

61年前、日米両軍は硫黄島で戦いました。この戦いに興味を抱いた私は、硫黄島防衛の先頭に立った栗林中道中将の存在を知りました。彼は独創的な戦術を用い、想像力や機知に富んだ人物でした。
 私はまた、敵対するにもかかわらず両軍の若い兵士たちに共通して見られた姿勢にもとても興味を持ち、2つの作品を双方の視点から創作することにしました。
 多くの戦争映画は、「正義か悪か」の構図で描かれてきました。しかし、人生と同じように、戦争もそういうものではないのです。私の2本の映画も勝ち負けを描いたものではありません。戦争が人間に与える影響、本当ならもっと生きられたであろう人々に与えた影響を描いています。これらの映画を通して、両国が共有する、あの深く心に刻まれた時代を新たな視点で見ることができれば幸いです。

掲載記事:【読売新聞 Oct27,2006】

感謝状:読売新聞大阪本社

ハル・ドレイク様
和子・ドレイク様

大阪もやっと秋めいて参りました。
さて、「硫黄島企画」の掲載紙を同封させていただきます。結果はひと言”大反響”に尽きます。読者アンケートの結果や業界内での評価、もちろんワーナーブラザーズの喜びようは、言うまでもありません。中でもドレイクさんのインタビューについて「渡辺謙さんより面白い」との感想をいただくことも多く、スタッフ一同喜んでおります。
ご一緒させていただいたことに感謝すると共に、今後ますますのご活躍をお祈り申し上げます。ありがとうございました。

2006年10月31日 読売新聞社 谷口武史 排