『ネットワード・インターナショナル・サービス(以下、Netword)』会長、『パシフィック異文化教育アカデミー(以下、PCA)』学院長「ハロルド・A・ドレイク」がメディア掲載、取材等で取り上げられた記事を紹介致します。
以下、掲載記事
『Tokyo Weekender(トーキョー・ウィークエンダー)』掲載記事
November 17,2000
Paralympics in Sydney:profiles in courage
By Hal Drake(Weekender Australia Correspondent)
Tokyo Weekender | Japan’s Premier English Magazine
www.tokyoweekender.com
シドニーパラリンピックにて、「東京ウィークエンダー」オーストラリア特派員ハル・ドレイク・和子夫妻とクイーンズランド州車椅子テニス男子ダブルス銀メダリストのデイヴイッド・ジョンソン。「障害者」であるはずの選手たちが見せた勇姿を追う間特派員の記事を掲載。また、和子夫人は、この10月28日から11月5日にゴールドコーストで開催され大成功に終わったアジア太平洋マスターズ大会で親善大使として活躍した。
シドニーパラリンピック選手たちの勇姿の横顔
シドニー発 ハル・ドレイク「東京ウィークエンダー」オーストラリア特派員
栄光の10日聞を謹歌したのは、足が不自由であったり、あるいは目が見えないなどといった不幸な障害を持った人たちのはずだった。しかし2000年シドニーパラリンピックでは、選手たちは哀れむべき援助の対象ではなかった。不運と障害を乗り越え、健常者のオリンピック選手たちが去った数日後、閉じ競技場で、栄冠を勝ち取った超人として賞賛すべき存在なのだ。なぜ、123ヶ国から3,800人もの「障害者」がパラリンピックに押し寄せたのか?障害ゆえにスポーツはおろか、就職も学校に行くことも満足にできない、無用の人間ではなかったのか?
それは第二次世界大戦直後にさかのぼる。イギリスのストーク・マンデヴィルという町の大病院に収容された、身体に障害を負った復員兵たちこそ、国が恩給や記念品以上の礼を尽くすべき人々である。入院患者が極めて短時間で車椅子を使いこなすようになることに目をつけたのが、神経外科担当のルド、ヴィッヒ・グットマン医師だった。患者たちは片手で巧みに車椅子を操作しながら、もう片方の空いた手で物を持つことまでできる。これを応用すればバスケットボールのドリブルも可能ではないか。これなら、障害者でも立派なスポーツマンになれる。期を同じくして、大戦により8年間延期されていた1948年オリンピックのファンファーレが鳴り響いた。4年に1度の世界のスポーツの祭典の復活である。障害者スポーツのアイデアは至る所で発展し、カリフオルニアのパーミンガム退役軍人病院で車椅子パスケットボールが行われた。これを映画化した「男たち」(原題 “The Men”、日本来公開)では、マーロン・ブランドが障害を負った復員兵を好演している。引き続き、関係者の創造性と熱意が、このアイデアを他のスポーツ、他の固にまで発展させた。1960年のオリンピックローマ大会にあたって、「パラリンピック」という言葉が初めてマスメディアに萱場し、オリンピック直後に同じ競技場で開催することが決定された。話がここまで発展するとは、グットマン医師も考えていなかっただろう。ましてや、2000年シドニー大会で繰り広げられた熱戦のことなど、予想もつかなかったのではないか。車椅子でテニスコートを縦横無尽に駆け巡るポーカー・フェイスの選手は、国際車椅子テニスチャンピオンのデイヴィッド・ホール。ホールはこのタイトル防衛と同時に、オーストラリアに初のパラリンピック金メダルをもたらした。
写真:デイヴィッド・ホール
ハンデをつけたアメリカ代表のスティーヴン・ウェルチを破って勝ち取った「金」は、並々ならぬ努力なしにはありえなかった。16歳の時に自動車事故で、両脚を失って以来、這い上がるための闘いに身を置いてきた。試合後も当然のようにその闘いに戻る。「障害者」とみなされることを嫌う彼は、1年の半分は試合で各地を転戦し、勝つことによって人々に可能性を知らしめるのだ。パラリンピックの選手たちには、まるで樟害などないような、あるいは障害があることを忘れたかのような、すがすがしい気迫が感じられる。あごひげを伸ばし「グル」のような思慮深いいでたちのアンソニー・クラークは、アトランタ大会の96kg級柔道金メダリストだ。今回は金を逃したものの、その迫力は変わらない。クラークの眼は22年前の自動車事故で飛ひ々散ったガラスがもとで、わずかな光さえ感じることができない。いま彼は、片時も離れたことのない盲導犬の黒いラブラドールレトリバーの体に手を置き、競技場の畳の上に誘導される。そして審判が、両選手とも相手の柔道着を正しくつかんでいるかを確認する。クラークは、同等の障害を持つブライトンに敗れたが、パラリンピックの信条である、「参加することの意義」を自らの信条にしている。彼は、自分の運命を変えた出来事をそれほど恨んではいない。「あの事故の責任は全て自分にあったから、自分もそれを受け入れて生きてきた。最も難しい問題は社会とどう付き合っていくかだ。世間では、まだ障害者は何もできない人間だと思いこんでいて、何かをすることに対して否定的だ。でも、そんなことは断じてない。」試合や、精力的な講演活動を通じて、クラークはそれを証明している。
写真:ニール・フラー
ニール・フラーも最悪の不運に見舞われた。サッカーでの負傷が合併症を引き起こし、右ひざ下切断を余儀なくされたのだ。選手生命を断たれ心身ともに打ちのめされたかと思いきや、彼は長い靴べらのような義足をはめ、地元シドニーパラリンピック陸上の短距離で4つの金メダルを勝ち取った。
写真:フレンダン・バーケット
水泳選手のブレンダン・バーケットにとって、1985年のクリスマスは暗いものとなった。ひき逃げ事故の犠牲となり、左脚の大部分を失ったのだ。彼は、自分が障害者となったことや、卑劣な犯人を恨んではいない。「人生前進あるのみ。」彼はきっぱりとこう断言する。次も、車椅子に座っている、あるいは切断された脚の付け根から身体を乗せている障害者たちが興じるスポーツの話だ。ただし今度は、「車椅子ラグビー」という過激な競技のことだが。ラグビーという最もタフな競技を芝生ではなく体育館の硬い床の上でやろうというのだ。本来ならご法度である生身のぶつかり合い、負傷のリスク、にもかかわらずこのメヌエットのような優雅な身のこなしはどこから生まれるのだろう?それは、見ていればわかる。まるで、古代ローマ時代にタイムスリップし、コロッセオの右段の観客席にいるようだ。あるいは、スタントマンが「ベン・ハー」の戦車競走のシーンを再現しているかのようだ。この「手動の戦車」は、羊や方障を打ちのめすくさびのようだ。敵障をこじ開けたり打ち壊したりした後、1枚の盾のように結束する。ルールブックはどこかにあるはずだろうが、あってないようなものだ。アメリカチームのスティーヴ・ペイトがオーストラリアのジョージ・ハックスを投げ飛ばした。落ちた床は草で、覆われた地面より硬い。起き上がろうとするハックスにペイトが詫びるように手を貸した途端、ハックスはぺイトの「戦車」を転覆させ、ゲームは大接戦でフィナーレに向かう。試合は32対31の僅差でアメリカの勝利に終わった。歓喜する勝者がローマ兵の兜をもてあそんだとしても不思議でない。
こんなハードで乱暴な振る舞いは、可憐な17歳の天才スイマ一、シヨノミーン・ペイトンには微塵も見られない。彼女は5日間で5個、さらに最終日にもう1個、計6個の金メダルを勝ち取った。いま大歓声を浴びるぺイトンの過去は、罵声にまみれていた。知的障害者である彼女のIQは健常レベルの100に満たない。学校ではいじめの格好の標的にされ「知恵遅れ」と馬鹿にされていた。だが、コーチや障害者の先輩たちの熱意が、達成感と自信を手にする道を彼女に開いたのだ。カナダ代表のリレー泳者ステファニー・ディクソンは、「ゴールデン・ガール」と呼ばれた往年の短距離選手ベティ・カスパートのように金髪で、色白でもなく、誇り高くかつ謙虚にも見えない。だがディクソンの前では、カスパートへの賞賛も形無しだろう。飛び込み台に不安定なバランスで立ち、バトンを受け取ると、巧みなキックとストロークでプールに飛び出し進んでゆく。これを片足だけで、やってのけるのだから。
走り高跳び、走り幅跳びで優勝したリサ・ローレンスが自分でつけたニックネームは「チーター」。アフリカの草原をスピードと気高さを持って駆け巡るために生まれてきたような、あのネコ科の動物だ。だが、ローレンスも「お荷物」のレッテルを貼られ、一生他人の世話なしに生きられないと思われていたのだ。自閉症のローレンスは、「レイン・マン」でダスティン・ホフマンが演じたレイモンドのように、物事の認識や学習が遅く、緊張すると感情の抑制がきかなくなるという障害を持つ。だが、パラリンピックでの真の飛躍が、彼女を立ち直らせた。パラリンピックで、オーストラリア選手団長をつとめるポール・バードは、この役目に心血を注いできた。水泳選手としてミュンヘンオリンピック代表メンバーを目指していた彼は、オートバイ事故で右脚を失い、以後健常者スポーツに名を残すことはなかったが、今やバルセロナ、アトランタなど多くの大会に参加しているパラリンピックの常連だ。
パラリンピックには、敗者も用無しも存在しない。ここに参加する選手たちは皆、ただそれだけで心の金メダルを勝ち取った勝利者なのだ。